当初は、ホームページに一日何十人か訪れればいいぐらいだったという同人サークル。
その作品である「ひぐらしのなく頃に」
それがクチコミや宣伝で広まっていき、議論に議論を呼んでいく一つのブーム。
そして、それを収束させていく。
この一連の現象を
「ひぐらし現象」と勝手に名づけました。
以下、これについて私自身の視点で、私自身の認識や見解を書き記していきます。
もし全ての編が最初からまとめて発表されていたら?
まず一つ、仮定の話をしてみます。
もし、『ひぐらし』が
「続きモノの物語をバラ売りにしたサウンドノベル」ではなく、
最初からまとめて世に出ていたらどうなっていただろう。 ごく一部で、一時期は話題になったかもしれません。しかし、恐らくそれで終わりだったのではないかと考えます。
ビジュアル面でのアピールは、ない。曲もフリーで、専用のものはない。
話はそこそこ面白かったでしょう。しかし、今より面白かったかは分からない。
最初の予定通りの「ひぐらし」と、時間の中で変わっていったであろう「ひぐらし」が、同じものとは限らないからです。
一方で、作者自身が掲示板に提示していた「問い」についての答えは、全て盛り込まれていたはずです。
結果的に、作品としての完成度は高くなっていたでしょう。しかし、それ自体が作品の「面白さ」に繋がるかどうかは分かりません。
あとは、「羽入」の外見が梨花の色違いだっただろうとか、dai氏のものをはじめとした、いくつかの印象的な音楽は存在しなかっただろうとか。
いくつかの曲が存在しないだけで、今の「ひぐらし」とは決定的に別物であると言えるかもしれません。
そうして、他の多くの「ミステリー風の作品」と同じものとして、当たり前のように埋没したのではないかと考えます。
ブームの隆盛と収束・作品の変質と出題者の敗北
「問い」として世に出される
「ひぐらし現象」の最大の特徴は、この作品自体が
ユーザーに対する「問い」として提示されていた点でしょう。
さながら数学の「ミレニアム懸賞問題」のようです。
「問い」としての敷居は全く別次元ですが、知れ渡った分だけ、「挑戦者」や「野次馬」の数を増していきました。
「ひぐらし」に賞金はありませんが、各方面のオタクを挑発すれば、群がってくるのは自然な現象だと思います。
ここに一種の「祭」が起こりました。
さらに、その後の広報的な面での成功や、作品自体の魅力もあり、どんどん人を呼んでいきます。
そうして議論の場の中核である公式HPのカウンターは、一日に数千から万を数えるようになりました。
出題者としての敗北
「ミレニアム懸賞問題」のように多くの数学者が頭をひねっても分からない問題ならともかく、「ひぐらし」は増えすぎた挑戦者に耐えられませんでした。
例えるなら、田舎の村で子どもを相手に手品を披露していた若者が、興行師に目をつけられ、都会に引っ張りだされたものの、そのショーを馬鹿にされ、土足で踏み荒らされ、笑いものにされたような。
高野一二三の研究成果の扱われ方を思い出すと、似ていなくもありません。オジイチャンヲフマナイデ!
それはどうしようもない
「敗北」だったでしょう。
この時、「ひぐらし」が当初から目指していたであろう“作品としてのあり方”は、容易く壊れてしまいました。
つまり、公式掲示板での作者とユーザーの議論。自分から問いを発し、それに答えを求め、考えてもらう。そして、その答えを作品の中で少しずつ提示し、最後には全てを解決する。
「ひぐらし」の初期〜中期(出題編4編の発売直後あたり)までは、この形はなんとか維持されていたようです。
そして同時に、数にまぎれて
「悪意」がやってきます。
作者が「問い」の出題者として「敗北」を認めざるをえなくなったのは、遅くて「罪滅し編」の後でしょう。
某所で漏らした「もうやめたい」発言は、あまりにも有名です。
「問い」をすりかえ、方向転換し、別物になっていく
目明し編では、まだ謎解きらしい面を持っていて、作品としては破綻していなかったかもしれません。
しかし、罪滅し編にきて、寄生虫、仲間、レナとの戦いと、展開が変わり、散々に叩かれる。
こういった面だけを見れば、作品としては不幸だったのかもしれません。
そんな中、最初に作者自身が掲示板で提示していた「謎」が、別のものにすりかえられていきます。
「物語のルール」や「重ねて透かす」等、まるで自分が発した“問い”は
なかったと言わんばかりに、別物へと変質していきました。
しかし、これはユーザーに受け入れられることはありませんでした。
メディア等での作者の発言と、ユーザーの作品に対する認識の間に齟齬が生まれ、作品の姿が不明瞭になっていきました。
その結果。
皆殺し編、祭囃し編と進み、本編が「完結」したにもかかわらず、
「物語のルール」という、すりかえられた後の「答え」を、一方的に提示するに留まったのです。
ここには、作者が当初に発した「問い」である、
「圭一の遺言」についての解明が、完全に無視されたという事実が残りました。
これをもって、「ひぐらし」という作品の変質と、全ての結果・結論だと捉えるのが私の見方です。 「当初に出した問題の答えを明かせない・明かさない」ということ。
すなわち「問題の取り下げ」です。
これは、出題者としての完全な
「敗北宣言」だと解釈できます。
収束の後・変質した作品の行方
商業的展開の中で
作品は変質し、最初の「問い」を失い、別物になりました。
しかし作者が自分から
「“問い”を発したけれど、答えられなかったので、別の“問い”へと変更し、こっちに答えてみました」 とはなかなか言えないでしょう。もはや個人の所有物ではなく、多数人間が関わる商品だったのですから。
また、作品の変質によって反発するユーザーは、もはや全ユーザーの一部だったはずです。
メディア展開によって増えたユーザーと、初期〜中期からのユーザーの数は、比べるべくもないからです。
切り捨てるならどちらか? いうまでもありません。
そのような状態を鑑みると、「作品の変質」は、「商品」としての体裁を維持するために苦心して行われた対処だったのかもしれません。
そうすることで起こるユーザーの反応も、もはや分かりきっていたはずです。
PS2への移植
罪編以降、エターテイメントとして「謎解き」以外の面の分量を増やし、ノリと勢いで押し切ろうとするような作品になりました。
恐らく目指した方向性は、
「ミステリー風味のトンデモ超展開エンターテイメント」というところでしょうか。
そういった作品には前例があります。
「ひぐらし」が一つの作品として、まとまって手に入るようになる頃には、そんな作品の一つとして扱えるようになる……という打算もあったのかもしれません。
そして、その集大成が……次のPS2版の「ひぐらしのなく頃に祭」です。
この作品は、もはや
「バラ売りアドベンチャー」ではありません。
一つの作品としてまとまって世に出るのだから、ユーザー「問い」を発することもありません。作品の中で発せられた「問い」は、その作品の中で解決されます。
「問い」と「答え」がセットになっているわけです。当初の「ひぐらし」とは著しくかけ離れた姿ですが、本来はこれがフツーの作品です。
「問い」が発せられたとしても、それは散りばめられた伏線とともに、投げっぱなしになりなって終わるだけです。
そう、一つの作品としてまとまって発表されるなら、もはや
「ひぐらし現象」は起こりえません。
「問い」としての価値や意味を、ほぼ完全に失うからです。
『ひぐらしのなく頃に』はそうやってそこそこの商業的成功をおさめ、そこそこの作品と同じく消費されて埋もれてゆくのでしょう。
次代へ
今後もし誰かが、同じような「バラ売りアドベンチャーゲーム」を目指すなら、『ひぐらし』が示した多くの問題点を解決していく方策が必要になるはずです。
私は『ひぐらし』が当初目指したであろうものの実現が、不可能であるとは思っていません。
『ひぐらし』は、ゲームの新たな可能性を一つ切り開いて、先に進んだのです。
いつもの「部活」で、
「魅音=ゲームマスター=竜騎士07氏」とする。
参加者は我々プレイヤー。
ゲームマスター自身の手に負えるうちはいい。しかしあまりに人が増え、彼自身の手が届かなくなってしまいました。
盛り上がる校庭。
しかし、そこには
“最もあるべき人”の姿を、欠いたままだったのです。