雛見沢研究メモ
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【うみねこ】 「偽書作者縁寿説?」…キャラクター同一性崩壊の理由 

 アニメをヘビーローテしつつ考えたこと第二弾。
 珍しく重要な指摘になりそうな予感がするので、どう書いたものか悩んでます。
 この話をつきつめていくと深いところまで行くことになるので、とりあえずサワリだけ。
 まだ今ひとつ整理しきれてないんですけど、書きながらおいおい整理していけばいいかなーみたいな。

 「キャラクター同一性崩壊の理由」
 別人が書いてるんだから、キャラが違って当たり前ということ。それだけ。
 EP3の「善良なる魔女ベアトリーチェ」と「ベアトに優しい戦人」はなぜそうなのか。
 そして「EP3作者からの、EP1・2への批判」について。

偽書作家“八城十八”への疑念


 EP6で登場した、自称EP3?6(のようなもの)の作者、八城十八。あるいはフェザリーヌ。
 縁寿と八城の邂逅シーンも、八城の存在も、何もかもが胡散臭く、現実かどうか分からない。
 それでも私は一応EP3?6を八城の作品として考えてたんです。しかし、アニメを見てると段々疑いが強くなっていきました。
 だいたい、なんで九羽鳥庵の存在を知ってるのか。そこにいた人間ベアトのことはどうか。そこまでは川畑船長に取材すれば分かるかもしれない。しかし楼座と九羽鳥庵ベアトの遭遇はどうだろう。あれは八城の空想という位置づけになるんだろうか。
 そう考えていくと、一気にEP3・4がつまらなく感じたんですよ。真面目に考える気にならない。EP3以降の細かい設定が八城の空想でしかないなら、本当にただの二次創作だからです。八城が右代宮家によほど近しい人間だった……とかでもない限りは。

作者役のキャラクター


 そんなことを考えながらアニメのEP3・4を見ているうちに思い出したことがありました。それは私が以前、真里亞を「作者役のキャラクター」として捉え、本当の作者は別にいると考えていたことです。
(参考:【うみねこ】 EP1の3周目:2日目? - 雛見沢研究メモ(仮)

 「作者役のキャラクター」とは、その物語の実際の作者とは別のものです。
 EP1・2の内容が記されているとされるボトルメールには、右代宮真里亞という署名があることになっています。 そして、同姓同名の右代宮真里亞というキャラクターがEP1・2の作中に登場しています。そのまま見れば作者自身が作品の登場人物になっていると言えます。
 しかし、ボトルメールの筆跡は実際の真里亞とは違っているということになってます。だから書いたのは真里亞ではないと考えられる。実際の作者はどうやら別人らしい。今のところその作者として有力なのは紗音あたりですね。そもそも真里亞では、年齢的にも時間的にも無理がある。
 じゃぁ真里亞はどういうポジションなんだというと、実際の作者ではなく作者として据えられただけのキャラクター……つまり「作者役のキャラクター」だと考えたんです。

 なぜ真里亞がそういう位置づけに据えられたのかはさておき、八城十八の話に戻りましょう。
 私はこの八城も真里亞と同じ「作者役のキャラクター」なのではないかと考えました。EP3以降の「偽書」の作者という役割を追っただけのキャラクターです。同時にフェザリーヌという魔女でもあり、特別なポジションで物語を俯瞰し考察しているキャラクターでもあるようです。
 なぜそう考えたかというと、EP6で八城が登場するシーンの現実感があまりにも希薄だからです。八城が実在する人間なのかどうかさえ分かりません。そもそも実在の人物かどうかはさほど問題ではありませんが。
 
 八城が実在さえ不定な「作者役のキャラクター」でしかなく、他に本当の作者がいるとしたらそれは誰か。これはもう、私には縁寿だとしか考えられませんでした。しかし、縁寿がEP3以降の作者だと確定できるような材料はありません。
 ただ言えるのは、EP3以降の作者を縁寿だと考えてみることで、八城の二次創作だと思うよりは、ずっと面白くなったということですかね。同じ二次創作とはいえ、身内の縁寿と(恐らく)他人の八城では、その意味は全く違ってきます。
 そして、この視点から様々なことが考えられることに気付きました。その内容はかなり色んな方向に飛んでいるので、ちょっと簡単にまとめきれません。というわけで今回はそのサワリだけ。

 注意して欲しいのは、EP3以降の作者が縁寿かどうかを探るのが目的ではないということです。この仮定によって「うみねこ」という作品がどう捉えられるのかが重要なんです。偽書作者が縁寿でなかろうと、さしたる問題ではありません。
 

キャラクターの同一性の崩壊について


 「偽書作者縁寿説」の具体的な内容に入る前に、復習しておかなければならないことがあります。それは「うみねこ」におけるキャラクターの同一性の崩壊についてです。
(参考)【うみねこ】[EP4考察] 「キャラクターの同一性」の問題 -分裂してぼやけていく彼らの姿- - 雛見沢研究メモ(仮)

 まず、忘れもしない、私に「うみねこ」キャラの理解を放棄させたシーンの一つを振り返ります。
 EP3で、戦人がベアトとエヴァの残酷さを糾弾するシーン。
戦人「お前の言い分にも、一定の理解はする。お前には、自分の復活の為に、おかしな碑文に沿った殺人を続ける必要があるってんだろ。……だから、その範囲内でのお前の殺人は、お前の立場の事情を汲み取る限り、ぎりぎりの理解は出来る。……それがお前にとっては必要な行為だからだ。……なら、それ以上の不要な行為は全て、お前の無意味な残酷趣味ということになる。?」

ベアト「妾は、そんなにも嫌われておるか? そりゃあ確かに、対戦相手だから敵同士ではあるが、座興を笑い合えぬほど、妾たちは不仲だというのかぁ…?!」
 このあたりですね。かなりオブラートにつつんで表現しても、理解不能としか言いようがありませんでした。キャラクターが何を考えているのか分からないんです。
 当時の自分のプレイメモを見ると、その戸惑いがよくわかります。
ベアト「妾はそんなにも嫌われておるか?
→誰だオマエ
 EP2ラストでは屈服させた戦人を辱め、EP3では戦人を七杭で殺しまくっておいて、今更不仲とか何を言ってるんだろう?
→一瞬笑いあえたのは、少し前のことを都合よくすぐ忘れるうっかり戦人くんの心の広さあってのことじゃぁないか。
(参考)【うみねこのなく頃にEP3プレイメモ:34】[ネタバレ] 10月5日10:30? - 雛見沢研究メモ(仮)
 多少大げさではありますが、「誰だオマエ」という言葉に全てが表現されてます。つまり、私はキャラクターの同一性を見失っているということです。

 EP2までに自分の身内を殺されまくった戦人が、なぜかベアトに歩み寄り、理解を示そうとしている。そして、EP2まで戦人をひたすら辱め貶め、戦人の身内を殺戮してきたベアトは「自分は戦人と不仲だったのか?」などとすっとんきょうなことを言い出す。
 もはやキャラクターに感情移入できるかどうかなどという問題ではありません。EP2までの戦人やベアトと、EP3でのそれが同一人物に思えなかったんです。もちろんEP間のキャラクターの変化を違和感なく受け入れた人もいるのかもしれませんけど、私と同じように感じた人は少なくないのではないかと思います。
 これが「うみねこ」におけるキャラクターの同一性の崩壊の一例です。

別の作者による別の解釈…キャラクター同一性崩壊の答え


 キャラクター同一性崩壊の問題は小さくはなく、EP6まできても、私には各EP間の戦人やベアトの変化を理解することはできないままでした。精々無理矢理な理由をコジツケて、理解した気になれるかどうかという程度です。

 ところがです。
 EP3以降を書いたのが縁寿だという仮定をすると、この問題は当たり前のように解消されました。簡単なことです。ただ、作者が違えば、キャラクターへの解釈も、作品に込められるメッセージも違って当たり前だというだけのことなんです。
 だからEP3以降で考えるべきことは、戦人やベアトのキャラクターの破綻についてではありません。縁寿がなぜEP1・2と違う形で戦人やベアトを書いたのか。そして縁寿がどのようなメッセージを伝えようとしているかというのが大事なところなんです。
 
 「うみねこ」キャラの同一性は相当怪しい。というか破綻しているようにしか見えない。しかし彼らは作者=無限の魔女に従うただの駒であり、そのメッセージを代弁する人形です。
 だからそのように見てやればいい。作者は駒をどう捉え、どう動かしているか。そしてなぜそうしているのか。
 キャラクターの同一性の保持よりも、作者にとって大事なことがある。
 ……ここを考えることで、新たな捉え方ができるようになりました。

善良なる魔女ベアトリーチェ…縁寿のキャラクター解釈?


 EP3からの偽書の作者は縁寿である。この仮定を置いて考えていきます。
 
 まず最初に触れたいのはベアトリーチェについて。なぜ、縁寿はEP3でベアトリーチェを邪悪な魔女から善良な魔女へとシフトさせたのか。その理由を推測することは簡単です。EP4の内容をみれば、縁寿にとってベアトリーチェは必ずしも邪悪な存在ではないことが容易に見てとれるからです。

 真里亞の日記を大事にしている縁寿は、そこに登場するベアトリーチェが真里亞の友人であり、大事な存在だと知っていました。真里亞の内面の変化がベアトリーチェを歪ませてしまったけれど、元々は善良な魔女だったことを、縁寿はちゃんと知っていたんです。
 だから自分がEP3を書くにあたって、ベアトリーチェをただ邪悪なだけの魔女とするには抵抗があったんでしょう。そして、だからこそベアトリーチェをただ邪悪なだけじゃなく、無垢でもあり無邪気でもあり、人の気持ちを理解しうる善良な魔女、ないし善良な魔女になれる存在として描いた。
 それがEP3のベアトリーチェの変化の理由だと考えることができます。

 これは以前書いた【うみねこ】 EP3の2周目完了 -人の世の罪・邪悪な魔女の役割etc.- - 雛見沢研究メモ(仮)の内容にも関係してきます。ベアトリーチェは「邪悪な魔女」として人の世の罪を背負わされただけの悲しい存在だという内容です。
 ベアトリーチェを善良な魔女として描くにはどうすればいいか。縁寿は突然キャラを変更するのではなく、まずベアトから「殺人者」の役割を剥ぎ取りました。そしてその役割を、エヴァに任せています。これによって「邪悪な魔女」の要素を剥ぎ取られ、ベアトは真里亞の日記のような「善良な魔女」としての第一歩を踏み出すことができた。縁寿は、ベアトリーチェの立ち位置を書き換えることで、ベアトリーチェのあり方を変えようとしたんです。
 そして、その到達点として「真の無限の魔法」があります。EP3終盤、目覚めたベアトが朱志香と嘉音のために体をはって心臓だけになっても耐えるシーンのアレです。

 EP6まで読むと分かりますが、「無限の魔法」という言葉には「物語の創作」という意味もあります。縁寿と八城の対話の中で、物語を紡ぎその世界や登場人物を自在に操ることが「無限の魔法」と表現されています。
 人を自在に殺し、蘇らせるのも「無限の魔法」ではある。しかし、縁寿の考えではそれはベアトが使った「真の無限の魔法」には及ばない。「無限の魔法<<<<越えられない壁<<<<真の無限の魔法」です。
 それはなぜか、その違いは何かというと、EP3でワルギリアが定義した、魔法の本来の存在意義に関係がある。……つまり「人を幸せにする」という目的で使用されているかどうかです。エヴァの無限の魔法は人を不幸にし、ベアトの真の無限の魔法は人を幸せにする。
 これは「物語の創作」に置き換えると、「人を幸せにする物語」が「人を不幸にする物語」より上だという意味でもあります。
 幸せにする対象は縁寿や真里亞など身内であり、少なくともここでは“一般の人々”は関係ありません。縁寿の創作上の信条みたいなものだと考えていいと思います。

 縁寿は作中でベアトに「真の無限の魔法」を使わせ、真里亞の好きだった善良なる魔女としてのベアトリーチェを回復しようと試みた。これは人を……死者である真里亞への鎮魂の儀式のようなものなのかもしれません。そのために縁寿は「人を幸せにする物語=真の無限の魔法」を生み出した。
 そしてEP3はそれまでの話とは違う道を辿ることになった。EP1・2のような邪悪でグロテスクな魔女の物語は、EP3で悪=エヴァと善=ベアトの対決の物語へと変わった。悪趣味なミステリ的読み物が、英雄譚さながらに。

 ……しかし縁寿は、EP3の最後で再びベアトを「邪悪な魔女」へと貶めてしまいます。これはなぜか? それはまた別の機会に語ることにします。簡単に触れておくと“そうしないと物語が続かないから”です。それが無限の魔女の残酷さであり、ベアトリーチェの苦悩でもある。

ベアトに優しい戦人…縁寿のキャラクター解釈?


 続いて戦人のキャラの変化について。
 ベアトに身内を殺され虐められ辱められ、何もいい思いをしてないはずの戦人が、なぜかベアトリーチェに理解を示す。全く意味が分かりません。オブラートに包んでも、どうかしてしまったとしか思えません。
 でもこれも、縁寿が作者だからだと考えれば一応説明することができます。例えば、EP3の戦人のベアトに対する態度は、縁寿のそれと同一だと考えるとどうでしょう。戦人は縁寿の代理に過ぎない。

 縁寿は、ベアトリーチェが真里亞の日記の中で優しく善良な魔女だったことを知っています。だからベアトを邪悪な魔女として、ただの敵として認識することができない。ベアトにも何かがあって、EP1・2のような存在に“されてしまった”のだと察しがついてしまう。そしてそれは正しい。

 EP3でベアトを真の無限の魔法に目覚めさせているように、縁寿は戦人だけでなく、ベアトリーチェさえも救いたいんだと思うんです。“救う”とは、物語の中で、善良な魔女に戻してやる、あるいは殺してやるということです。なぜなら、ベアトは真里亞にとって大事な存在であり、縁寿にとって“ベアトリーチェは本来善良な魔女だから”です。例え現実のベアトリーチェが邪悪なものであっても、縁寿や真里亞にとっては違う。それが物語の中に現れている。

 最初からこのあたりを計算に入れた状態で戦人というキャラを作って動かしてるから、EP2までとは別人になってしまったのではないかというわけ。邪悪なベアトしか知らずこれを敵視する戦人(EP1・2)と、善良なベアトを知っていて敵視しきれない戦人(EP3以降)は、本当にただの別人。縁寿がそうしたかったから、そうなった。

「無意味な残酷趣味」…EP3作者からの、EP1・2への批判


 偽書作者縁寿によるキャラクターの解釈についてはこれくらいにして、次はこの場面に込められた縁寿のメッセージを考えてみましょう。
 そのための鍵はこれ。戦人が代弁する、EP1・2のベアトに対する批判です。
戦人「?第一の晩に6人を殺すことまでがお前にとっての“必要な行為”ならば、顔を砕くとか、腹を割いてお菓子を詰め込むなんて真似は全て、まったく不必要な、お前の残酷趣味だってことになる。……俺はお前のこの点について、断じて許すことができないんだ」
 EP3の作者が縁寿で、この場面を縁寿のメッセージとすれば、これはどんなメッセージなのか。私は簡単に想像できます。

 それは、「縁寿の身内を殺してもてあそぶ悪趣味なEP1・2(とその作者)への批判」です。
 EP6で縁寿は八城に対しても同じようなことを言ってました。無限の魔女だか偽書作家だかと称して、右代宮家の人々を物語の中でもてあそぶ八城、あるいはウィッチハンターやマスコミへの強い不快感が見てとれました。
 EP3を書いたのが縁寿なら、そういう批判的な内容が含まれるのは当たり前だと言えます。

 この場面で戦人はベアトの悪趣味な「無限の魔法」を非難し、魔女ですらないと断じています。
 「無限の魔法」には「物語の創作」という意味がある。縁寿は、悪趣味な物語を作るEP1・2の作者は作家として失格であり、悪趣味な無限の魔法ばかり使うベアトは魔女として失格だ……といってるんです。
・ベアトリーチェはそんなんじゃない! → ベアトが善良な魔女へ。戦人もベアト寄りに
・無意味な残酷趣味をやめろ! → EP1・2への批判。魔女・作家失格のレッテル

 今回の内容はまだ一部です。ちょっと書ききれない感じ。
 こういう考え方ができることに気付いた時、アニメを見つつもかなり興奮しました。
 いや、面白いわ「うみねこ」は。今更か。
 これが正解かどうか? そんなもんどうでもよくね?
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