雛見沢研究メモ
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【うみねこ】 EP1の3周目:1日目? 愛を知らない真里亞に薔薇の真実は視えない 

 記事を小分けにしてるのは、後で自分で引用する時の利便性を優先してるからです。
 2周目の一部の記事は、引用しまくってる割に中身のテーマが分散してるので使いづらいんですよねアレ。

 今回は、いつもの薔薇消失あたりのシーンの意味を問い直す感じ。
 愛を知らない真里亞に薔薇の真実は視えない。そして、子供から大人へ。

*追記:薔薇庭園にやってきた「本当の他者」

薔薇がなぜ消えたのかは割とどうでもいい?


EP3:ベアト「?残念だな、真里亞。この風雨に、そなたの薔薇は耐えられなかったらしい」
 EP3でベアトが出てきて、薔薇を探す真里亞に告げる言葉。風でどっか飛んでいったというオチ。
 薔薇や結ばれた飴玉の包みががそう簡単に飛んでいくかどうかは疑問ですが、「風でとんでった」でもそれはそれでアリなんですよ多分。EP1なら郷田がデザートを作るときにしおれかけた薔薇をゴミだと思って抜いていったのかもしれない。
 今のところどっちかなんて分からないし、割とどうでもいいような気もする。
 あるいは、ここで見るべきなのは別のことかもしれないぞ…というのが今回の話。

愛がないから視えない


 「愛のない真里亞に薔薇は視えない」……こう書くとものすごく語弊があるんですけど、要するにこのシーンの意味はこれなんだと思うんです。真里亞には愛がない。だから消えてしまった薔薇が視えない。
 ……いやそうともいえるんだけど、私がいいたいのはそうじゃない。「愛を知らない真里亞には、薔薇の真実は視えない」と私は言いたいんです。

 EP4の縁寿と小此木の話を思い出してください。絵羽に対する愛がない縁寿には、絵羽=犯人という以外の真実が視えない。……そしてこのことを反省した縁寿は、より客観的・多角的に分析することで、絵羽=犯人という以外の真実も視ようとしてます。EP6では、それを縁寿は自分の愛だと考えているようでした。
EP6:縁寿「私なりの見方は、すでにしている。でもそれじゃ、片目で見ているに過ぎない。私と異なる見方も受け入れ、視点を増やさなければ、真実を立体視は出来ない。それが、私の解釈する、“愛がなければ視えない”だ」

 ではこの薔薇のシーンでの真里亞はどうでしょう。
EP1:真里亞「うー。真里亞の薔薇はここなの。ここにあるの…!」
 こういって頑なに「薔薇がここにはない」という真実を視ようとしないんですね。それは真里亞の都合であって、薔薇の都合ではない。
 薔薇は抜かれもすれば、風で吹き飛びもする。ベアトリーチェが諸行無常というとおり、真里亞の我侭の通りに現実はできていない。それを認識しようとしない真里亞は、愚かさと幼さを持つ“愛を知らない”子供なんです。
 分かったようなクサいことを書けば、「薔薇を愛するということは、失われた薔薇を蘇らせて永遠のものにするということではなく、失われること自体をもまた愛するということだ」というような感じですかね。

真里亞に与えられる魔法


EP1のベアト:真里亞に傘と手紙を与える。薔薇は蘇生しない
EP2のベアト:真里亞のお菓子を修復する。(薔薇は放置?)
EP3のベアト:薔薇を蘇生する。
 記憶が薄いので確かではないですが、各EPの薔薇庭園で真里亞と出会うベアトリーチェの振る舞いは多少異なります。
 EP1では傘と手紙を与えただけで「魔法」は使ってない風に見えます。
 EP2では、お菓子を修復する魔法を使いました。この魔法は、いうまでもなく「手品」ですね。楼座もこの手品を魔法だと信じてしまったようですが……シチュエーション的に相手がかつて死なせたベアトリーチェだったことが影響してるかも。
 EP3では、薔薇そのものを蘇生しました。でもよく見れば「そっちではない」とか書いてあるし、別の薔薇に金のモールを巻いて蘇らせたということにしただけの手品だと推測できます。

 真里亞はこうして「本当の他者(この場合はベアトリーチェ=多分紗音)」から「魔法=手品」を与えてもらうだけの存在です。サンタクロースに来てもらう側(=子供)であって、サンタクロースとしてプレゼントを与える側(=大人)ではない。

魔法=手品でしか納得しない真里亞


EP2:嘉音「?さっき僕がもらったのと交換してあげるよ」
嘉音は、さっき真里亞にもらった同じお菓子がポケットにあったことを思い出す。
?
どんなに無惨でも、踏みにじられた方のお菓子が、真里亞のもの。
真里亞にと母が買ってくれたもの。
 これはEP2のシーンですが、EP4のさくたろう蘇生への伏線ですね。真里亞は「母からもらったもの」をそのまま交換されても納得しない。「魔法=手品」で修復したということにしないと、受け取らないんです。これは逆にいえば、「魔法=手品」を使えば納得するということでもあります。

 ここで分かるのは“現時点で”真里亞に対して物事を納得させるための手段。身も蓋もなくいえば、真里亞をコントロールするにはうまく騙すしかないってことです。ほんとに身も蓋も無いな。
 楼座はEP1でも真里亞をドツキまくってますが、そんなことしても解決しないんですよね。真里亞を動かすのは暴力ではなくて、「魔法=手品」です。だから真里亞をコントロール(ないし教育)したければ、うまく騙す方が効率がいい。

 例えば「うーうー言うのをやめさせたい」なら、「うーうー言わなくても幸せになれる魔法」を考えて教えればいいわけです。真里亞は母親との関係を恐ろしく重視するキャラクターなので、楼座が何かを新しく与えてやれば割と簡単に誘導できるでしょう。

「本当の魔法」を知るということ


 真里亞は基本的に「本当の魔法=手品」を自分で使う事ができません。あくまでそれを受け取る側でしかなく、与える側ではない。
 つまりそれは、「真里亞は本当の魔法を知らない」ってことでもあるんですよね。あれだけ魔法魔法と言ってるけれど、真里亞はその本質を理解していない。
 「本当の魔法」でない魔法は“おまじない”の類でしかなく、真里亞はいつまでたっても自分が受け取ってきた「魔法=手品」は使えず「一人前の魔女」にはなれないんです。

 この真里亞に対して「本当の魔法」でもってさくたろうを蘇生して見せたのがEP4の縁寿でした。
 縁寿はEP4で「本当の魔法」を知りました。寝具店で“何か”を見つけたときでした。縁寿はそこで気付いたんです。「魔法」とは何なのかということに。
EP4:縁寿「理解したわ。お姉ちゃん。そして、ベアトリーチェ」
?
これが、魔法なのね………
 ここで魔法を知った縁寿は、サンタクロースにプレゼントを受け取る方(=子供)から、サンタクロースとしてプレゼントを与える方(=大人)になった。こう考えると、「うみねこ」において「本当の魔法」を知るということは“大人”になるという意味があるという風に解釈できます。

 これは特に“子供”としての真里亞にとっては、彼女の物語の終了条件でもあるんだろうと容易に推測できます。【うみねこ】 「ベアトリーチェ=ギャルゲー擬人化」仮説…個別ルートの集合体として - 雛見沢研究メモ(仮)でいえば、「真里亞ルート」のクリア条件です。
 そして私が思うに、EP4で真里亞は“大人”になった。

そして真里亞が「本当の魔法」を使う時


EP6:真里亞「さぁさ、思い浮かべて御覧なさいッ!! カップの中にキャンディがいっぱいッ!!?」
?
すると、中から、みっしりと、可愛らしいキャンディーがいくつも溢れ出す! 真里亞は、してやったりと、満面の笑みでヱリカを見返す?
 EP4で“大人”になった真里亞は、EP6で自分から「魔法=手品」を使い、飴玉を出す方になった。それがこのシーンだと考えてます。EP6で、ヱリカと真里亞が対決するシーンです。

 極めて稚拙ではあっても、これは確かに「一人前の魔女」です。真里亞はもうただサンタクロースからプレゼントを受け取るだけの子供ではなくなった。
 下位=ゲーム盤の真里亞が急にキャラが変わってもアレなんですけど、メタ視世界ならいいんじゃないですかね。EP6のメタ真里亞がEP4と連続してるのかどうかはちょっと分からない。なのでこのあたりは曖昧です。

 そして、EP6では同じ魔法を妹ベアトが使い、カップから黄金の花びらを出しました。さらにこれを姉ベアトが「魔法」だと金字で認めた。
EP6:姉ベアト「(金字)そなたが魔法にて、伏せたカップの中に黄金の花びらを生み出した。見事な魔法であったぞ」
 ……これは「赤字」なら多分ステイルメイトかロジックエラーになってしまう。「魔法」だと赤で認めてしまうことになるからです。「金字」だから許される。
 これも身も蓋もありませんが、つまりは「魔法という名前の手品」ってことですね。これはもう議論の対象にはならない。言葉の定義に関するトリックの類です。
 同じ魔法が魔法と認められたのだから、真里亞がやったのも魔法のはずです。

そしてまた失われた薔薇へと戻る


 本当の魔法を知り、愛を知り、ヱリカとも戦いぬいた(負けたけど)真里亞が、次に失われた薔薇を見たとき……
 多分「薔薇の真実」をちゃんと受け止められるようになってるんじゃないですかね。飛んでったのか引っこ抜かれたのかは知りませんけど、ただ“失われた”という事実を受け止めるということです。
 これにはヱリカが言う「真実に堪えるという力」というのも必要なんでしょう。
 
 失われた薔薇の代わりに、自分でいそいそと他の薔薇に飴玉の包みを結びつけたところで、自分自身は騙せないはず。それはさくたろを自力で蘇生できないのと同じこと。
 また、それにはそもそも意味がない。虚しい行為でしかない。その薔薇は「失われた薔薇」の代わりでしかない。そこを含めての「真実に堪える力」が必要だということです。 

 そしてこれは、縁寿にも言えることなんですね。
 縁寿はメタ視世界で戦人たちの帰還を願って活動してますが、ベルンの言うとおり恐らくこの縁寿自身のところに戦人は戻ってこない。戻ってくるとしても、別の並行世界?の縁寿のところなんでしょう。
 だったら、今いるこの縁寿自身はどうなるのか。どうにもならない。失われたものはそのまま。

 失われたという「薔薇の真実」に真里亞が堪えなければならないように、縁寿は「六軒島の真実」に堪えなければならない。
 過去が変えられるという都合のいい慰めの夢から、真里亞も縁寿も覚めなければならない。
 ……というのが大体の薔薇のエピソードの位置づけというか、ストーリーの流れなんじゃないかと考えてみましたよっと。
 

追記:薔薇庭園にやってきた「本当の他者」


 この薔薇庭園のシーンで真里亞が自分で薔薇を蘇生するのではなく、ベアトリーチェの助けを借りて蘇らせたということにも意味があります。真里亞が単に自分でやってもそれはただの欺瞞であって、別の薔薇に金のモールを巻いただけの虚しい手品以下のものになってしまう。ところがこの場面の真里亞は、その後「満足」してる。

 それはつまり、この場面でやってくるベアトリーチェが「本当の他者=真里亞のゲロカス妄想でない」ということの証明でもあるんですね。誰か他の人間がここに来たということです。「本当の魔法」が使える、EP4の縁寿のような存在です。

 EP4で「本当の魔法」について理解することによって、EP1?3のこのシーン(少なくともEP3)で遭遇したのが幻想でなく生身の人間であるということも分かるようになってる……と考えるのがよさそうな気がします。
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