まだ書き足りない感じで。
「1人を無限に殺す力」
まだちょっと解釈に悩むので少し考え直してみました。
ベアトの力は単体で物語を延々と続けられる力
ベルンカステルとラムダデルタの力は、どちらも「相手の抵抗」がなければ1度力を使うだけで目的を達成してしまいます。
・ベル:ゼロでない限り必ず成就する力
→相手の抵抗がなければ願いを叶えて終了
・ラムダ:1人を必ず殺す力
→相手を殺して終了 つまり、彼女らの力では、最低二人、拮抗する能力を持つキャラがいないと物語が一度で終わってしまうんです。
対してベアトの「1人を無限に殺す力」は、この力をもつキャラ単体で物語が延々と続くことになります。
閉じ込めようとする意志・抜け出そうとする意志
前の記事で「無限に殺されるのでは、諦めて死ぬこともできない」という“意志”に絡むことを少し書きましたが、もうすこし掘り下げてみます。
「その無力な魔女殿が、何人たりとも寄せ付けぬ力をお持ちなのだから恐れ入る。かの大魔女、ラムダデルタ卿を単騎にて退けられたのだから。」
「……根競べに勝っただけよ。あの子が飽きただけのこと。」
このことを、ベルンカステル側の「生きようとする意志」と、ラムダデルタ側の「殺そうとする意志」が競り合い、結局ベルンカステル側の「生きようとする意志」が勝ったのだと解釈します。
ところが「無限に殺す」方ではこの両方が混在しています。
殺される対象が「生きよう」としようが「死のう」としようが、無関係に「無限に殺される」のがベアトの力だとすると、梨花には可能だった「諦めて死ぬ」という選択肢がありません。生きようとして生きることもできません。
また力を使う方は、殺そうとすると同時に、再び殺すために生かそうともします。
対象は、ただ流されるままに、生死を反復することしかできない「法則」の中に閉じ込められ、本人の“生死に関する意志”を奪われているような状態です。
ベアトのルールにまつわる意志に名前をつけるとすると、
「ルールに閉じ込めようとする意志」というところでしょうか。
これに対する意志なら、
「ルールから抜け出そうとする意志」ですかね。
イメージ的には、仏教の「輪廻」と「解脱」です。
今回の主人公?は「生きようとする意志」をもって死の運命に対するのではなく、「ルールから抜け出そうとする意志」をもって対することになる……という風になるんでしょうか。
書いてて混乱。
言葉の矛盾
1人を“必ず”殺す力。しかしこの世に“必ず”は存在しない。
同様に「無限」といっても、この場合は「半永久的」というだけのことだと考えられるでしょうか。
「半永久的」なだけなので、どこか機構が崩れれば永久ではなくなってしまう、無限の反復はできなくなる……という感じかなと。
3人の魔女の力の相性
………貴女とだけは戦いたくないわ。貴女の中にはゼロしかない。だから、私の力では貴女から勝機を得られない。最悪の相性よ。……ラムダデルタなら、逆に相性がいいのかしら。貴女の“無限”を殺せるでしょうから。
「半永久」を崩すためには、それを実現している機構を壊さなければならない。
そして、ベルの力でできるのは0でない可能性を成就させること。
ところが、「半永久」の機構には論理自体に穴がないため、これを破綻させることができない。つまりベルの力は通用しない。
しかし、ラムダの力は「無限」を殺す……つまり「半永久」の機構自体を外部から破壊できると解釈できるのかなと。
つまりこんな感じ。
・ベル:ゼロでない限り必ず成就する力
→確率が入り込む余地のあるゲームなら絶対勝てる。
例えば、詰んだ将棋には勝てないが、ルーレット等の賭け事ならギリギリまで追い詰められても可能性さえあれば勝てる。
・ラムダ:1人を必ず殺す力
→ゲームならゲーム盤自体を破壊することもできるという力。
→ベルとラムダの戦いは、「ゲームクリア(ベル)が早いか、ゲーム盤の破壊(ラムダ)が早いかという戦い」 ではなく、「ゲームクリアを争う」だけ。ゲーム盤の破壊自体は最後まで成されていない。
この時のゲームの種目は確率の入り込まない将棋のようなものではなく、ルーレットとかサイコロの類。
→「必ず」という言葉面自体にはあんまり意味がないかも。「ゼロでない限り必ず殺す力」と言い換えれば、用途の狭いベルの力と同質。なぜラムダにゲーム盤が破壊できてベルにできないのかはよく分からない。
・ベアト:1人を無限に殺す力
→理屈の上では隙がない。つまり詰んだ将棋。ベルは勝てない。
→しかしゲーム盤=ルール自体を破壊されると弱い。ラムダなら勝てる。
→ベアトの力はゲームの種目というよりゲーム盤・ゲームのルールそのもの。 こういう解釈をすると、以下の文章の説明がつきます。
ベアトリーチェという名の存在を持っているけれども、だからといってそれは“一個体の女性”とは限らない。
意味がわかる?
つまり、あれはニンゲンの誰かじゃない。
この世界のルールが擬人化した存在だということ。
ベルやデルタは一応人間として、あるいは人間を介して力を使ってました。
彼女らはゲーム盤・ゲームのルールそのものではなく、「サイコロ」を使ったゲームのプレイヤー同士だったわけです。
しかし
ベアトリーチェは「ルールの擬人化」……つまり「ゲーム盤そのもの」であり「ゲームのルール」そのもの。 確率のゲームでしか勝てないベルは勝ち目がない。
ゲーム盤そのものを破壊することができるデルタなら勝ち目がある。
多分こういう風に解釈するんだろうな?と、一応そういうことで。
死にたがっている人間が超能力の「1人の対象」でも物語ができる
『ひぐらし』の場合は“生きたがっている”梨花だったからこそ、物語が成立しました。
もし梨花が死にたがっていれば、諦めておしまいです。
ところが『うみねこ』では、別に生きたがっていなくても物語は続きます。
本人が「死にたい」と思っていても、勝手に蘇生されてまた殺されるからです。
なので、『ひぐらし』のように「生きたがり」を探しても「1人の対象」は見つからないかもしれません。
自殺願望のあるアブナイやつが梨花のようなメインを張っていても不思議はないからです。
『ひぐらし』は生きたくて努力する梨花だったものが、『うみねこ』では死にたくて努力する誰かなのかも。
源次と手ぬぐいと「家具」と命に対する無頓着
死者に倉庫の手ぬぐいを
プレイメモの時点でも違和感のあったシーン
源次が、倉庫内に干してあった手ぬぐいを数枚、手に取ると、絵羽が甲高い声でそれを制した。
「ちょっとちょっと!お待ちなさいよ。ここは犯行現場なんでしょ??
このシーンでは、誰も使われようとしたのが「倉庫の手ぬぐい」であったこと自体には突っ込みません。
私にはこのシーンが非常に奇異に映りました。
倉庫に干してあった手ぬぐい。
土をいじったり掃除をしたりして、使用人が何度も使っただろう手ぬぐいです。
油汚れに土汚れ、色々と汚れているでしょう。
それを死人の顔にかけようとする源次の行動。
これが私には、
「死人の顔に雑巾をかけるような行動」に見えたわけです。
せめて屋敷に新しいタオルでも取りに帰るぐらいはしていいんじゃないかと。
この行動をスルーしてもいいんですが、ひょっとすると源次の特殊な価値観と絡んでいるかもしれないと思ったので考えてみます。
自分を「家具」と任ずる男
嘉音たち使用人が口にする「家具」という言葉。どうやら出所は源次のようなカンジです。
自分を「家具」と表現する。家具とはモノです。人ではありません。
つまり源次には、「人間をモノ扱いする」という価値観が存在することになります。
この源次の価値観は、普段は自分たち使用人にだけ適用されています。
主人たちを「家具=モノ」呼ばわりすることはありません。
しかし
「主人が死んだら??」 ひょっとすると源次にとっては
「主人の死体は人間ではなくモノ」という認識があるんじゃないかと、私はそう考えたわけです。
“ただのモノだから顔に雑巾をかけても問題ない!”というわけです。
生前の主人に、間違っても倉庫の手ぬぐいをかける……あるいは使わせることはないでしょう。使用人が使うものです。
死んでしまえば関係ない。ただのモノなら主人として扱う必要はない。
源次の、自分の命に対する執着
プレイメモでも書きましたが、私の源次に関する印象は「自分の命に執着がなさそう」というものでした。
金蔵への忠誠、自分をモノ扱いする。これでは喜んで主人のために命を投げ出しそうだなと。
こんなシーンもありました。
…自分はどうなろうと構わない。
……しかし嘉音には、万一のことはあってほしくなかった。
源次が老人で嘉音が子供だからということもあるかもしれませんが、どこか投げやりなところがあるのも源次のようで。
献身といえば聞こえはいいですが、これが自分の生命に対する無頓着、ひいては生死に関する価値観のゆがみに繋がっているかもしれないなと。
こじつけですが。
源次なら……という想像
こんなところから、例えば源次なら、6人の死体を猫車か何かに乗せて倉庫に運び込むという作業も、顔面を耕すという作業も冷静にこなせるかもしれない……という印象を持つことになりました。
主人たちを直接「殺す」ことはできなくても、死体をモノとして扱える“かもしれない”源次なら、死体損壊や死体の焼却にもさほど抵抗がないかもしれないなと。
かなり先走った妄想ですが。
魔女を殺すこと。お魎がただのバーサンになること。
前の記事で「魔女」の幻想を維持する仕組みについて触れましたが、「幻想の崩壊」というテーマで色々エピソードが出てくるのかも、と考えたり。
この「幻想崩壊」はうみねこ第一話にも一つありました。
それは「金蔵」についてです。
金蔵の書斎で、金蔵の愛や執着の話を知った戦人たちの中で、キモ怖い祖父さまがただのジーサンになった瞬間。
オカルト的な幻想をまとっていたジーサンが、戦人たちの中で死んだ女性の蘇生を願う偏執狂に変質しました。
(これが事実かどうかは別として)
他にもあったかもしれません。
例えば「秀吉の財政状況」に関してとか。
キャラ設定では羽振りのよさそうな秀吉でしたが、フタをあけてみれば大弱りで必死だったとか。
こっちはオカルト要素がありませんが。
前の記事で触れたのは「魔女」と「黄金」についてだけでしたが、これから他にも色々と「幻想」が崩壊していくのではないかと想像できます。
あとはそうですね……
例えば第二話では、「清純っぽい紗音」や「いい人っぽい譲治」の幻想が壊れたりするかも。
第一話を見た印象ではどっちもかなり危うい感じでした。
黒い紗音にイっちゃってる譲治、このぐらいはアリ。
『ひぐらし』で物語が進むごとに底知れないお魎がただのバーサンになっていったように、
「魔女」もただのネーチャンになっていくのかもしれません。
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