(最終更新:2008/07/27:記事を二つに分割しました。
【ひぐらし】 「ひぐらしのなく頃に」の理想形としての「うみねこのなく頃に」)
「ひぐらし」が様々な問題を抱えていたことは間違いありません。
この中でも私が重視しているのが
「本格推理原理主義者」の存在です。
私の言う「本格推理原理主義者」とは何か。それに対してどうすればいいのか。
そんなことを益体も無く考えてみました。
「本格推理原理主義者」について
本格推理原理主義者
正直なところ、私は
「推理小説」と聞くと肝が縮み上がります。
何故か?
それは、
「推理小説」が“何か怖いものである”というイメージがこびりついているからです。
そうなってしまった原因が、“アレ”です。
長い間、“アレ”をなんと呼べばいいのか分かりませんでした。
しかし、どうやら私はその答えらしきものを見つけたようです。
それは偶然見つけたこの言葉。
「本格推理原理主義者」 ……ああ、これだなと納得しました。
言葉の定義と蓄積された過去の作品を「聖典」として、攻撃性や粘着性をもって他勢力を駆逐せんとする活動家たちです。 私の言葉でこれを表現するなら、
「推理ヤクザ」とでも呼ぶのが妥当でしょう。
火薬庫と火種
どうやら探偵小説、推理小説、ミステリー、推理モノという世界は、元々様々な議論の火種を抱えた
火薬庫のようなものであるようです。
そんな中に、「ミステリ」や「推理」という言葉を使った者が、何か目立つことや変わったことをすると途端に湧き出してくる「本格推理原理主義者」がいるわけです。
彼らはまるで
「ミステリ」や「推理」という言葉が「自分たちの縄張り」ででもあるかのように振る舞います。そこで難癖をつける相手がいないかと探し回っているのでしょう。
そして、彼らに見つかると途端に絡まれます。
どこからか借りてきたような言葉で場を乱し、相手を駆逐し排斥しようとします。
およそ言葉は通用しません。巨大掲示板の“荒らし”と同じなのです。
もちろん、ミステリに関わる人たちは、そんな人ばかりではありません。
ミステリファンにも色々な人がいて、またミステリにも色んなジャンルがあります。
特定の行動をとる人たちはごく一部に過ぎません。
時と場を弁え、大声で喚き散らすことなく、乱暴な言葉で威圧することなく、理性的な論理が通用し、議論が可能な相手であれば、何の問題もないのです。 問題なのは「ミステリ」や「推理」という言葉を聖典として、やたらと攻撃性ばかりを発露する限られた人たちに過ぎません。話の通じない暴力主義者だけを指しているのです。
擁護のしようがないという事実
「ひぐらしのなく頃に」の問題点
いまさら言うまでもありませんが、『ひぐらし』には色々と問題点がありました。
一言で言えば、
「○○を推理しろと言っておいて、結局は推理なんてできるようなものではなかった」ということです。
もちろん「推理できる部分と出来ない部分があった」という指摘もあります。
しかし、作者自身が「ここを推理しろ」と言った部分の説明が、自分自身ですらできなかったというのはやはり問題だといわざるを得ません。
はっきり言ってしまえば、その点で「ひぐらしのなく頃に」という作品は
未完成品であり、
失敗作です。また
「詐欺」という言葉を否定するのも難しいでしょう。
これによって「ミステリ」や「推理」の火薬庫に火がつき、その中から「本格推理原理主義者」までもが湧き出してくることになったわけです。あとはご存知の通りの惨状です。
火薬庫の火は消せるか?
「本格推理原理主義者」の暴力を回避するため最も理想的な方策は、
「ひぐらしがミステリとして高い完成度を持つこと」です。
しかし現実として「ひぐらし」には問題点が山積みであり、既に完結しています。もはやどうしようもありません。
そしてまた、「ミステリ」や「推理」、あまつさえ「本格ミステリ」という類の言葉を使用して売り出していたのも事実です。その事実を覆すことは出来ません。
ゆえに、「本格推理原理主義者」たちの聖典に“触れなかった”ことにすることもできません。
つまり、既に火が点いてしまった火薬庫をどうこうすることは、もはやできないのです。
勝手に燃え尽きて消えてしまうまで待つしかないでしょう。
もし擁護のしようがあるのなら
もし
「擁護派が擁護できる要素がちゃんと存在する」のなら、火薬庫の火を消すこともできたのかもしれません。
しかし、「ひぐらし」は擁護しようにもできないのです。
考察サイトが軒並み停止状態になったりするのも分かりますし、公式掲示板からゴッソリ人がいなくなったりしたのも分かります。
私のようなオミソしか残らないのも、およそ分かろうというものです。
ちゃんと話の分かる人、ちゃんと話ができる人が矢面に立っててくれれば、全く楽でいいんですけど。
「ひぐらしのなく頃に」の価値
ミステリとしての完成度が、価値の全てではない
「ひぐらし」を、「ミステリ」や「推理」として擁護することはできません。
しかし、それは作品としての価値自体に直接影響するわけではありません。
「ミステリとして完成度が低い=作品の価値がない」ということではないのです。
「ミステリとしての完成度」は、「ひぐらし」を構成する要素の一つであるに過ぎません。
個々人にとっての「価値」は私には知る由もありませんが、私にとっての価値を語るなら簡単です。
まず人を引き込む手腕。ストーリー。キャラクター。
そして大々的なメディア展開にも耐えた内容。多くの二次創作を生み出したパワー。
もはや猟奇的事件の代名詞になっているほどの浸透性。
あるいは複数の世界を重ねて透かし、物語のルールを考えさせるという方向性。
ユーザーが議論しうる場所をネット上に提供したこと。そしてその議論までをもコンテンツとして取り込んだこと。 問題点も多い作品ですが、価値や魅力がないわけではなく、評価されるべき点がないわけでもないのです。
今それが足りないのならば、今後補っていけばいいだけなのではないでしょうか。
実験を繰り返して
今後補っていけばいい。しかし、次の「うみねこ」で理想的な形で実現されるのは難しいでしょう。
再び「ひぐらし」同様の「実験作」になると思います。
相当に完成度が上がったところで、やはりどうしても問題点は出てくるはずです。
プロの推理作家の作品であっても、駄作や失敗作がない世界でもありませんし、
火薬庫はいつでもすぐ隣にあります。
そういう意味では、やはり「同人」という世界でしか出来ないことなのかもしれません。
“他に誰もやらないことをやる”
その一点だけでも私は充分以上の評価をしたいんですけど。
いや一体私はナニサマなのか。
「本格推理原理主義者」回避のためにユーザーができること
最後に、「本格推理主義者」を回避するためにできることは何か。
私が思いつく限りでは、それは一つしかありません。
つまり、
「推理」とか「ミステリー」とか、そういった言葉をあまり使わないことです。
考えを進める上で一般的な意味での「推理」を含んでいたとしても、やはり避けたほうが無難です。
私はまず滅多なことでは使いません。何を呼び出すか分からないからです。
特定の人とは目を合わせない。近寄らない。関わらない。日常的に行っていることと同じです。
わざわざ自分から藪をつつく必要はないはずです。
せっかく気分よく遊んでいるところで、乱入などされたらたまったものではありません。
私には彼らと正面から渡り合う勇気などありませんし、その必要も感じません。