雛見沢研究メモ
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【ひぐらし】[PS2] PS2版綿流し編を終えて 

 途中で寄り道しましたが、祭囃し編の再プレイはごく短く切り上げてPS2に戻りました。

 綿流し編も面白かったです。
 知ってる話をスキップで飛ばさなかったのは、「あのシーンの演出はどうなってるんだろう」とか「あのシーンのセリフはどんな演技なんだろう」とか気になったからですね。
 ドラマCDは一応聴いてるんですが、視覚の有無で大分違います。
 「謎」の部分は基本的に全部知ってるワケで、あまり気にもしませんでした。

 今回私が特に考えてたのは、「鷹野」の心理について。
 ここではサラっと書くだけにしますが、いずれ引用を含めて詳しく書くことになるでしょう。

 鷹野が祭具殿にこだわる理由、原作皆編であんなに喜んでいた理由、そのあたりについて今まで私も色々考えてましたが、納得のいく答えは出ませんでした。
 研究に必要だから、作戦の一環だから、ただの趣味、などなど。

 しかし、祭囃し編や皆殺し編のラスト、あとスクラップ帳の記述や普段の鷹野の振る舞いを見ていて、唐突にある一つの結論にたどり着きました。
 それは、「鷹野三四はただ“おじいちゃん”を探しているのだ」ということでした。

 鷹野は、雛見沢で、この世にいない“おじいちゃん”を探している。
 スクラップ帳を見せて回るのは、自分の“おじいちゃん”を自慢しているだけ。
 生き返らせたいとか、死人を探しているわけではなくて、抽象的な意味での“おじいちゃん”です。
 祭具殿に入れるとなったときの喜びようは、「“おじいちゃん”に近づける(会える)こと」に対する、あまりにも無邪気な歓喜の表現だっのだ……って具合。

 もちろんこれは、私の個人的な解釈であって普遍的なものではありません。しかし私にとっては唯一無二の“答え”になりました。
 実にポエミィですが、私はソレで納得してしまったので、それ以上はありません。
 自分が納得できさえすれば、それでいいんです。

 また、鷹野の“おじいちゃん”に対するこだわりは、詩音の“悟史”に対するものと、ほとんど同じようなものだ考えると、解釈しやすいかもしれません。
 鷹野の場合のそれは、恋でも愛でもなく、ただ自分の“すべて”だっただけ。
 しかし、その特異な執着心と行動には、共通点が多いように思えます。
 
 綿流し編では、この特異な執着心をもち、雛見沢の中でそれを捜し求める二人の女性が、同じシーンに並びます。(といっても祭具殿のシーンだけですが)
 目明し編までプレイすれば、詩音が悟史を探していることはわかります。
 鷹野のことが分かるのは、全てを終えてからになります。  
 二人の心に理解が追いついてからこの二人を同じシーンの中で見てみると、何か運命的なものの存在をそこに感じてしまいます。
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