雛見沢研究メモ
ひぐらしのなく頃に・うみねこのなく頃にの考察・ニュース

【ひぐらし】 限られた状況で最大限に考えるゲーム -鬼隠し編「お疲れさま会」より- 

(最終更新:2008/07/17)

 最初と最後では作品の方向性が違っている「ひぐらしのなく頃に」という作品。
 作者が掲示板で「問い」を発し、それを考えるユーザーたち。出題編までの「ひぐらし」の姿です。
 そして作者自身が発した「問い」が無視され、変質した作品。これは解編以降の「ひぐらし」の姿です。
(関連)【ひぐらし】 「ひぐらし現象」 -ブームの隆盛と収束、作品の変質について-

 今回は「ひぐらし」の初期の姿がそのまま残っているはずの「鬼隠し編」の「お疲れさま会」から、「ひぐらし」をプレイする上で原点となるものを探してみようという試みです。

全ての原点として


「うーん、でもそーゆうのってあるじゃん? この最悪のバッドエンドを回避するために、プレイヤーさんが物語を模索していくのがサウンドノベルだし。」
 「鬼隠し編」冒頭での魅音のセリフ。
 これが「ひぐらしのなく頃に」というゲームの全ての原点であり、基本だと考えます。


正解率1%


 この物語を模索していく上で、まず押さえておかなければならない事があります。
 それは、「『ひぐらし』は推理問題として明確な解法が用意されているわけではない」という事です。
 これを理解しておかないと、後で「こんなものが解けるわけがない」とキレるはめになります。

 『ひぐらし』における最大の問題の一つが「正解率1%」という煽り文句。
 これによって、この物語が「明確な解法のある推理問題として成立しているはずだ」とユーザーに思わせてしまうことになりました。
 ここで、ユーザーと作者の間で、認識のズレが生じてしまっているわけです。

 しかしその作者が言う「正解」とは、“作者が鬼隠し編時点で想定していた(らしい)最高の解答”というだけ。
 どこまでも作者自身の主観的な基準でしかなかったんです。
 つまり「この人すごいな!!とりあえず正解ってことにしとけwwww」という程度の話。
 それが「鬼隠し編の正解」の基準です。
(参考)【ひぐらし】 竜騎士07氏掲示板発言 No385 「最高の正解」


限られた状況の中で


 ここで鬼隠し編のお疲れさま会に戻ると、魅音たちのこういうセリフがあります。
 「あははは! 限られた状況で最大限に推理する!! ちょっぴり部活感覚で面白いでしょ?」
 「あ、うん! そう考えれば面白いかも!」

 つまり、『ひぐらし』における「推理」とは、勝ち目がないほどに情報や手段が限られた状況下で、最大限の事を考え、行うという“遊び”なんですね。

 これは、例えば鬼隠し編序盤……傷や汚れで区別がついてしまう“ガン牌”で行われたジジ抜きの時の、圭一が置かれた状況と同じなんです。
 そしてつまり、これこそが「ひぐらしのなく頃に」という“ゲーム”だと私は考えます。

 そこには何の公正さもない。フェアじゃない。

 作品を外から見れば「フェア」であることが約束されているように見えるでしょう。「正解率1%」はそういう意味にしか取れません。
 しかし、作品を中から見た時、このゲームには「フェア」など最初からないことを感じることが出来るでしょう。
 このゲームは「限られた状況で最大限に推理する」ゲームであり、「解法が存在するゲーム」ではないからです。


最低最悪の相手と


 攻略法もなければ公正さもなく、卑怯こそが信条。
 勝てて当たり前のゲームを堂々と仕掛けておき、「貴様には勝てまい」と挑発してくる腐った奴ら。
 それが魅音たち部活メンバーです。

 そして、鬼隠し編の「ジジ抜き」における魅音たちと圭一との関係は、
 「竜騎士07氏(魅音たち)とユーザー(圭一側)」の関係そのものです。

 魅音たちを非難するならいくらでもできますし、非難するだけの理由は枚挙に暇がなく、そして当然正当性もあります。
 この時の魅音たちは本当に最低で最悪で、言い訳の余地なんか何もありません。
 あんなゲームに付き合う必要は何もありません。 
 しかし圭一はそうはしなかった。
 何故なら魅音たちは「仲間」であり、貶めるためにそのような不公平なゲームを仕掛けているわけではないということが分かっているからです。

 ここにはある種の「信頼関係」が必須で、それがなければ成立しない“遊び”なんです。
 つまり、「ひぐらしのなく頃に」という“ゲーム”も、「竜騎士07という卑怯極まりないゲームマスターに、勝てなくて当たり前の闘いを挑むゲーム」だということです。

 ある程度“分かっている”のが前提だという意味では、「同人」というある意味閉じた世界だから許される、シャレみたいなものかもしれません。

 通常の推理小説は、「本格推理小説」というジャンルとその要件に対する「信頼」によって成立しているのではないかと考えます。
 
 本格推理小説であるならば、「フェア」であることが当然であり、そうでなければ「裏切り」である。
 「裏切り」が成り立つには「信頼」がなければなりません。
 その「信頼」は、「フェア」であることによって保証されているものでしょう。

 しかし『ひぐらしのなく頃に』は「フェア」ではありませんでした。
 なら、このゲームを成立させるために必要な信頼関係は、どこに求めればいいのか。
 それは「竜騎士07」という個人以外にありえません。


馬鹿げた遊びに付き合うということ


 馬鹿げたゲームを仕掛けてくる魅音に“付き合う”ところが圭一の心意気でした。
   
 同じようにこのゲームの“洒落”を理解して、面白半分で付き合うことが、この「ひぐらしのなく頃に」において最も重要なポイントだと思います。
 作中の「部活感覚」で参加することが、このゲームを楽しむ条件だと言ってもいいかもしれません。

 用意されたゲームの内容は、敵にばかり有利な“最低最悪”の代物。相手は悪質・卑怯・卑劣の権化。謳い文句にも「大変悪質です」なんてチャッカリ書いてある。

 ゲームマスターである彼は卑劣で強大な“敵”であり続けなければならないし、折れても謝ってもいけない。
 最低最悪のゲームを仕掛けたのだから、最低最悪の敵役を演じ続けるしかない。
 しかし、プレイヤーも熱くなりすぎてはいけない。「部活感覚」ですからね。
 そういうルールです。

 このゲームで遊ぶなら
 “ガン牌ジジ抜きに付き合ってやる圭一のような気分で”
 無理そうならやめたらいい。
 もうこのゲームがフェアでないことは分かりきっているわけですから、もし今から遊ぶ人がいるなら……ということになりますが。
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[ 2006/05/01 ] 【ひぐらし考察TB(0) CM(0) はてなブックマークに追加

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